スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

チョルブの帰還(加藤光也 訳)

ナボコフ

  チョルブの帰還(加藤光也 訳)

   ナボコフ(1899―1977)

 彼は新婚旅行中に彼らが二人で訪れた場所を、すべて逆に辿っていった。二人が冬を越したスイスでは、いま林檎の木が最後の花をつけていたけれども、ホテルしか眼に入らなかった。前年の秋、二人がハイキングをした黒い森では、春の肌寒ささえ記憶の邪魔にはらならかった。彼はいまや、ちょうど南国の浜辺で、妻が最後の夕べの散策のおりにたまたま彼に見せた、細くて白い縞のまっすぐに入った、あの丸くて黒い独特の小石をもう一度見つけようとしたのと同じように、彼女の感嘆符の思い出が残る道端のあらゆる事物を捜し出そうと懸命だった。崖の特異な輪郭、銀灰色の鱗が層をなしていた小屋の屋根、白い急流の上の黒いモミの木と、そこにかかる人道橋。それからいわば未来を予示していたと考えたくもなるような、霧の滴が数珠つなぎになった二本の電信線のあいだにかかる。
放射状の蜘蛛の巣の網のようなもの。あの時には妻が一緒だった。彼女の小さなブーツは忙しく歩をきざみ、彼女の両手は決して止まることなく動きつづけた――藪から葉っぱを引抜こうとしたり、通りすがりに岩壁をなでたりしていた――休むことを知らぬ、あの快活で楽しげな両手。彼は黒っぽいそばかすだらけの小さな妻の顔や、大きな瞳を思い浮かべた。薄緑色のその瞳は、海の波に洗われてなめらかになった、ガラスのかけらのような色をしていた。もし、二人が一緒に眼にとめた小さな品々をすべて集めることができれば――もし、そのようにしてごく近い過去を再創造できれば――妻のイメージは不滅のものとなり、永遠に彼女のかわりとなるだろう、と彼は思った。
 
樫の木と栗の木が歩道にそって並び、それらの黒い樹皮は腐敗病の緑のビロードに覆われていた。ときおり葉がちぎれて、包装紙の切れはしのように、道を横切って飛んで行った。彼女は子供用のシャベルで、飛んでいく葉を捕えようとした。シャベルは、道が工事中の場所で、ピンク色のレンガの山の近くに見つけたものだった。少し離れたところで、労働者の箱型トラックの円筒から青灰色の煙が流れ、ななめに漂って木の枝のあいだに消えていった。――休憩中の労働者は片手を腰にあて、かかげた手に小さなシャベルを持った若い婦人が、枯葉のように身軽に舞う姿をじっと見つめていた。彼女は跳びはね、笑い声をあげた。チョルブは少し背を丸め、彼女の後から歩いていった。――幸福とはまさしくこのような匂い、枯葉のような匂いがするものだ、と思われたものだった。

 万里の長城 (池内紀 訳)

カフカ

   万里の長城 (池内紀 訳)

  カフカ(1883―1924)

 私見によれば、君主制については民衆こそ問うべきなのだ。民衆こそ君主制を支えている究極の柱であるからだ。この点、私は自分の古里を引き合いに出すしかないのだが、田畑の神々と、四季おりおりに取り行われる祭礼を除いて、誰もがひたすら皇帝のことを思い続けていた。とはいえ現に居ます皇帝のことではない。あるいはこう言うべきだろうか、現に居ます皇帝を知るか、その皇帝にまつわる何ほどかを知っていさえすれば、必ずや現に居ます皇帝を思っていたにちがいない、と。

 われわれの国土はかくも大きいのだ。どれほど壮大なお伽噺もこの国の大きさにはかなはない。大空でさえ、われらが国土をつつみかねている――一方、北京は単なる一点である。皇帝の居城ときたらシミのように小さい。皇帝の威光はあまねく世界にたなびいているが、うつし身の皇帝はわれわれと同じ一人の人間にすぎず、われわれと同様に長椅子に寝そべっている。それがいかに華麗な椅子であれ、長さ、大きさなどしれたものだ。われわれと同じように時には伸びをし、疲れれば手を口に添えてあくびをすることもあるだろう――しかし、どうすればその種のことを知りうるのだ。何万里もはなれた南方であって、少し行けばチベットの山系に踏みまようところなのだ。

 つまりがこのように民衆は絶望と希望のいりまじったまなざしをもって皇帝を見つめている。今がどの皇帝の御世か知らず、名前すら怪しい。歴代の皇帝の名前は学校で習ったが、制度そのものがいたって曖昧であるからには優等生でもあやふやにならずにはいないのである。村ではいまだ、とっくの昔に死んだはずの皇帝が健在であり、歌に伝わっているだけの皇帝が、つい先だって詔勅を発して神官が祭壇の前で朗読したばかりである。

 とすると、われわれにはしょせんは皇帝などいないのだと結論づけても、あながちまちがってはいないだろう。とまれ私は言っておかねばならない。おそらく南方人のわれわれほど皇帝に忠実な民衆もいないのだ。しかし、その忠誠はさして皇帝に役立たない。村はずれの小さな石柱の上に聖竜像がのっていて、はるか昔から燃えるような恭順の吐息を帝都に吐きつづけている。だが、帝都北京それ自体が村人にとっては彼岸よりももっと見知らないところである。

海辺の墓地 ヴァレリー(1871―1945)

ヴアレリー


   海辺の墓地

  ヴァレリー(1871―1945)

美しい空、真実の空よ、見よ 変ってゆく俺を。
あれほどの驕慢の後、あれほどの不思議な、然し
力の溢れた放心の懶惰の後に、
この光り輝く空間に わが身を委ね、
死者の住む家々の上を わが影が横切って、弱々しいその足どりに 影は俺を順応させる。

おお おのれ孤の為、おのれ独りで、おのれの中に、
心のかたはらに、詩の生れる源泉に、
虚無と 純粋な到来との間に、俺は
内在するわが大きさの反響を 待っている、絶えず未来の空洞を 魂の中で高鳴らせる、苦渋に満ちた、陰鬱な、響きの高い貯水槽を。

深い地底の父祖たちよ、住む者も居ない頭よ、
土を掬って盛り掛けた重みの下に、
土と化し、わが歩調も識別し得ない人々よ、
本当に蝕む者、墓虫でないとは証明し切れない蛆虫は、
墓場の石の下に眠る父祖たちの為ではなく、生命を啖って生きて、俺を離れることがない。

いな、いな…… 立ち上がれ。継起する時代の中に。
わが肉体よ、打ち毀せ、この思考する形態を。
わが胸よ、嚥み干せ、風の誕生を。
清新の大気は、海から 湧きあがり、
わが魂を俺に返還する…… おお 塩辛い風の力よ。
さあ 水に駆け込んで 生々として踊り出そう。

そうだ。荒れ狂う昏迷に陥りやすい大海よ、斑点の豹の毛皮よ、太陽の照射の光の
百千々に 千々に 孔を穿つた外套よ、
絶対の水の蛟龍よ、紺碧の己の肉に酔い癡れて、
静寂にも似た 擾乱のさなかに
燦めく蛇尾を 噛んでいる、海よ、今

風 吹き起る…… 生きねばならぬ。一面に
吹き立つ息吹は 本を開き また本を閉じ、
浪は 粉々になって 巌から迸り出る。
飛べ 飛べ 目の眩いた本の頁よ。
打ち砕け、浪よ。欣び躍る水で 打ち砕け、三角の帆の群の漁っていたこの静かな屋根を。

テーマ : 文学・小説
ジャンル : 小説・文学

洞窟 ザミャーチン(1844―1937)

ザミャーチン

  洞窟

 ザミャーチン(1844―1937)

静かだ。不死の、苦い、優しい、黄色い、白い、薄い青のことば、ことばを無頓着にむさぼり食いながら――鋳物の神は静かにごろごろとのどを鳴らしていた。そしてマーシャはお茶でももらうのと同じようにあっさりと――
「マルト! マルト、わたしにください!」
 マルチーン・マルチーヌィチは遠くのほうからほほえんだ――
「だがねマーシャ、お前だって知ってるだろう。そこには一人前しかないんだ」
「マルト、だって私はもういないも同然なのよ。これはもうわたしじゃないの――どうせわたしは……マルト、わかってくださる、マルト!」
 ああ、これが――あの声だ……もし頭を上にそらせたら……
「マーシャ、ぼくはお前をだましたんだ。家の書斎にはね、薪なんでない、それにぼくはオビヨールトゥイシェフの所へ行って、そこの戸と戸の間に……ぼくは盗んだんだ――わかるかい? それでセーリホフはぼくに……ぼくはすぐに戻しに行かなきゃならないんだが――ぼくは全部もやしてしまった、もやしてしまったんだ――全部!」
 鋳物の神は無頓着にまどろんでいる。消えて行きながら洞窟の丸天井はかすかに身震いしている。家々も、岩も、マンモスも、マーシャもかすかに身震いしている。
「マルト、もしあなたがまだ私を愛しているのなら……ねえ、マルト、ねえ思いだして! マルトったら!」
 不死の木の小馬、辻音楽師、氷の塊り。そしてこの声……マルチーン・マルチーヌィチはゆっくりと膝を起した。ゆっくりと、やっと巻揚げろくろを回しながら、机から青い小瓶を取ってマーシャに渡した。
 彼女は毛布をはらいのけて、あの時の夕日を受けた水のように、赤い、素早い、不死のものとなって、寝台の上にすわり、小瓶をつかんで笑った。
「ねえごらんなさい。わたしが寝ながらここから出て行くことを考えていたのは無駄じゃありませんでしたわ。もう一つ電気をつけて――その机の上の。そう。今度は何かもっとストーブに入れて」
 マルチーン・マルチーヌィチは見もせずに、紙を机から幾枚か、かき出してきてストーブに投げ入れた。
「それでは……少し散歩に行ってらっしゃい。たぶん月が出てるわ――わたしの月が。おぼえている? 忘れないで鍵をもって行って。さもないとぱたんとしめてしまうと、開けることが――」

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

土(「ダブリン市民」より) ジョイス(1882―1941)

ジョイス

   土(「ダブリン市民」より)

 ジョイス(1882―1941)

マライアの嬉しさといったら! 彼女は小さな寝室にはいり、明日の朝ミサがあるのを思いだして、目覚し時計の針を七時から六時に変えた。それから仕事着のスカートと室内用の深靴をぬぎ、いちばん上等なスカートをベッドにひろげ、小さなよそゆきの深靴をベッドの脚もとにおいた。ブラウスも着がえた。彼女は鏡のまえに立って、若い娘の頃、日曜日の朝のミサにはいつもよそゆきを着たのを思い、かつてはよく着飾った、ちいさな体を古風な愛情をこめてながめた。年はとったけれど、好ましくて、きれいで、こじんまりした体だ。
 外に出ると、通りは雨に光っていた。古い茶色の雨外套を持っていたのが嬉しかった。電車は満員だったので、車の端のちいさな丸椅子に、乗客とむかいあって、爪先がどうやら床にとどくかっこうで坐らねばならなかった。彼女は心のなかでこれからの買物の段取りをきめ、人の世話にならずに自分で使えるお金を持っているほうがずっといいと思った。楽しい夜になるといいけれど。それは楽しい夜に成るにきまっている。でも、アルフィーとジョウが仲たがいしたのは、ほんとに残念だったと思わずにいられない。いまはしょっちゅう喧嘩しているけれど、いっしょにいた子供のころは大の仲よしだったのに。でも人生ってそんなものだわ。

マライアは真赤になり、ちいさな、ふるえる声でうたいだした。彼女は《夢に見き》をうたった。第二節にくると、また繰りかえした。

  夢に見き、大理石の館にありて、
   家臣奴婢、かたわらにひかえいぬ。
  わが身こそ、館につどう人々の
   望みのしるし、誇りのしるし。

  数うるにいとまなき富を持ちにき、
   気高くもふるびし名を誇りき。
  されどまた、わが心限りなく慰みぬ、
   夢にてもなれのまこと変りなければ。

 でも、まちがいを口にするものはいなかった。彼女がうたいおわると、ジョウは心から感動した。だれがなんと言おうと、昔ほどいい時代はなかったし、いまは亡き、なつかしいバルフ(十九世紀ダブリンのオペラ作曲家)にまさる音楽もない、と彼は言った。彼の眼はすっかり涙にくもって、探しているものを見つけられなかった。しまいには、栓ぬきはどこにあるのか教えてくれ、と妻にたずねなければならなかった。

テーマ : 本の紹介
ジャンル : 小説・文学

プロフィール

mitosya

Author:mitosya
個人誌「未踏」へようこそ!
http://www.mitosya.com/

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。