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 万里の長城 (池内紀 訳)

カフカ

   万里の長城 (池内紀 訳)

  カフカ(1883―1924)

 私見によれば、君主制については民衆こそ問うべきなのだ。民衆こそ君主制を支えている究極の柱であるからだ。この点、私は自分の古里を引き合いに出すしかないのだが、田畑の神々と、四季おりおりに取り行われる祭礼を除いて、誰もがひたすら皇帝のことを思い続けていた。とはいえ現に居ます皇帝のことではない。あるいはこう言うべきだろうか、現に居ます皇帝を知るか、その皇帝にまつわる何ほどかを知っていさえすれば、必ずや現に居ます皇帝を思っていたにちがいない、と。

 われわれの国土はかくも大きいのだ。どれほど壮大なお伽噺もこの国の大きさにはかなはない。大空でさえ、われらが国土をつつみかねている――一方、北京は単なる一点である。皇帝の居城ときたらシミのように小さい。皇帝の威光はあまねく世界にたなびいているが、うつし身の皇帝はわれわれと同じ一人の人間にすぎず、われわれと同様に長椅子に寝そべっている。それがいかに華麗な椅子であれ、長さ、大きさなどしれたものだ。われわれと同じように時には伸びをし、疲れれば手を口に添えてあくびをすることもあるだろう――しかし、どうすればその種のことを知りうるのだ。何万里もはなれた南方であって、少し行けばチベットの山系に踏みまようところなのだ。

 つまりがこのように民衆は絶望と希望のいりまじったまなざしをもって皇帝を見つめている。今がどの皇帝の御世か知らず、名前すら怪しい。歴代の皇帝の名前は学校で習ったが、制度そのものがいたって曖昧であるからには優等生でもあやふやにならずにはいないのである。村ではいまだ、とっくの昔に死んだはずの皇帝が健在であり、歌に伝わっているだけの皇帝が、つい先だって詔勅を発して神官が祭壇の前で朗読したばかりである。

 とすると、われわれにはしょせんは皇帝などいないのだと結論づけても、あながちまちがってはいないだろう。とまれ私は言っておかねばならない。おそらく南方人のわれわれほど皇帝に忠実な民衆もいないのだ。しかし、その忠誠はさして皇帝に役立たない。村はずれの小さな石柱の上に聖竜像がのっていて、はるか昔から燃えるような恭順の吐息を帝都に吐きつづけている。だが、帝都北京それ自体が村人にとっては彼岸よりももっと見知らないところである。

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